白斑症を発症したのは、思春期まっただ中のことでした。
最初は中学3年生の頃、おでこに。
次に高校に入ってから、口の周りにも白斑が現れました。
白斑症とは何なのか。
簡単に言えば、肌の色素が部分的に抜けていく病気です。
つまり、少しずつ肌が白く変わっていく。
見た目の変化に最初は戸惑い、そのうち強い恐怖を感じるようになったのを今でもはっきりと覚えています。
「その白いの、どうしたの?」
そう聞かれるのが怖くて、誰かに見られないように帽子や長袖で隠す日々。
もし聞かれても「火傷の跡!」とごまかすしかありませんでした。
けれど、ふとした瞬間にチラリと見えた白斑に気づかれると、無言の視線が突き刺さる。
中には指をさして笑う人もいて、そのたびに心の傷は深くなっていきました。
そうして、人よりもずっと用心深くなっていきます。
当時の昭和・平成の空気感には「男性は弱さを見せてはいけない」という暗黙のルールのようなものがありませんでしたか。
だからこそ私も「平気なフリ」「普通なフリ」を装うことに、どれほどのエネルギーを使っていたことか。
正直、とても疲れました。
鏡に映る自分に優しい言葉をかけたことは一度もなく、もともと低かった自己肯定感はさらに落ち込み、
頭の中は「自分なんて…」という否定の言葉でいっぱいになっていきました。
本当にあの頃は辛かった。
でもこの経験が、のちにエシカルな生き方へとつながっていくとは、当時の私には想像もできなかったのです。
だからこそ「隠す」ことが当たり前になっていた私が、
なぜ“隠さない”という選択にたどり着いたのか
その答えを見つけるまでには、もう少し時間が必要でした。
見た目の悩みって、誰にも言えずに心の奥で積もっていくもの。
その苦しさをちゃんと認めることこそが、「本当の強さ」の始まりなんだと思う。
第1章|隠すことが習慣になった僕の10代・20代
学生編(10代)

少し過去の話をさせてください。
私が白斑症を本格的に意識し始めたのは、大学生になってからのことです。
中学・高校時代は進行がゆるやかで、日焼けのせいかあまり目立たなかったのですが、大学に入る頃からじわじわと白斑が広がっていきました。
定期的に皮膚科へ通いましたが、治療というよりは経過観察のような診察で改善は見られず、感謝を伝えて通院をやめました。
お金も時間ももったいないと感じたのです。
そこからは「隠すこと」が日常の一部になっていきました。
夏でもプールや海は極力避け、長袖を着て過ごし、周囲の視線やふとした言葉に敏感になっていきました。
正直な話、
「見られている気がする」
「笑われているかもしれない」
そう感じてしまうと、学校に行くことや人と会うことすら億劫になっていました。
心の弱さもあって勉強にも身が入らず、単位はいつもギリギリ。
それでも、友人たちは白斑に戸惑いながらも人として接してくれました。
そのおかげで引きこもることなく、なんとか今まで辿り着けたのだと思います。
今、彼らはどうしているんだろう。あの頃の僕と真正面から向き合ってくれた友人たちには、心から感謝しています。
ありがとう。
社会人編(20代)

社会人になって、小売業に就職しました。
正直、堕落した学生生活を送っていたため、選べるほどの就職先はありませんでした。
接客業ということもあり、この頃からファンデーションやコンシーラーを使うようになりました。
肌の色を整えることが、接客業に携わる自分なりの“礼儀”のように感じられたのです。
職場の人たちは皆優しく、気づいていても誰も指摘しませんでした。
でも、その“優しさ”すらも、時にはプレッシャーになることがありました。
「気にしてると思われたくない」
「でも隠さないと生きづらい」
そんな矛盾した思いが、心の中で交差していました。
メイクを意識するきっかけになったのは、会社の先輩と行った遊園地・よみうりランドでの出来事です。
室内の宇宙空間アトラクションに入ったとき、暗闇の中で白斑の部分だけが光り、口元がオバQのように浮かび上がってしまいました。
先輩はその瞬間、大笑い。
恐らくブラックライト(UVライト)の影響だと思いますが、それ以来、そうした照明のある場所には行きたくなくなりました。
正直、トラウマです。
当時は恥ずかしくてたまりませんでしたが、不思議とその笑いが私の背中を押したのです。
「ちゃんとメイクしよう」と。
今では“化粧男子”という言葉も一般的になりましたが、当時の私にとって男性が化粧をすることには大きな抵抗がありました。
それでも、接客の中で笑われたり傷ついたりすることが多く、もう四の五の言っていられなかったのです。
「普通でいたい」と願えば願うほど、「自分は普通じゃない」と突きつけられる。
10代・20代の僕は“自分らしさ”を押し殺す時間を過ごしていたように思います。
「普通」ってなんだろう?って、自分に問いかけたくなる。
でも、無理して“普通”を演じなくていい。
それよりも、自分を守る選択こそが、あなただけの強さになるんだ。
第2章|エシカルという言葉がくれた自分への問い
転換期(30代)

30代になっても、僕はずっと白斑を隠し続けていました。
コロナ禍ということもあり、普段はマスクでカバーし人前に出るイベントのときは化粧をしていました。
それでも、新しい人間関係ができるたびに「見られたくない」という気持ちが真っ先に浮かんでしまいます。
白斑は少しずつ進行し、
「このまま小売業を続けるのは難しくなるかもしれない」
そんな不安がよぎり、自分の力で生きていこうと決意。
フリーランスの道を選びました。
もちろん白斑症だけが理由ではなく、複数の要因が重なっての決断でした。
新天地と「4080問題」

退職前から副業の準備を進め、退職後に移り住んだのは山形県の片田舎。
地域の人との交流を楽しみながら、穏やかで充実した日々を過ごしていました。
田舎特有のしきたりに戸惑うこともありましたが、それすらも生活の一部として面白く感じていました。
しかしある朝、親が倒れたという知らせが届きます。
当時38歳。頭に浮かんだのは「介護」という二文字。
幸い命は助かったものの、要介護5・身体障害者1級・左半側空間無視という後遺症が残りました。
在宅介護か施設介護かで家族内の意見は分かれましたが、最終的に在宅介護を選択。
皆で決めたことであり、この選択に後悔はありません。
私も介護を支えるため、神奈川へ戻ることを決めました。
そして40代となった今、在宅介護をしながら個人事業主として仕事をしています。
在宅介護と白斑の進行
在宅介護は、正直かなりハードです。
ストレスのせいか、年齢のせいかは分かりませんが、神奈川に戻ってから白斑の進行は一気に加速しました。
両足は真っ白になり、顔・頭・手足にまで広がり、もう化粧では隠しきれなくなりつつあります。
頭皮も白くなり、毛も抜け始めました(…ということにしておきましょう)
「ちょっと辛いな…」
と思いながらも、それすら“言い訳”のように感じ、口に出すことをためらっていました。
きっかけはSNS
そんなある日、SNSで偶然目にした記事が、僕の心を揺さぶりました。
そこに書かれていたのは
「エシカルライフとは、他者や環境に配慮するだけでなく、自分にもやさしくすること」
「自分にも…?」と、思わずつぶやきました。
エシカルという言葉は山形にいた頃に知っていましたが、それまでは環境問題や動物愛護など、どこか“遠くて立派なこと”というイメージ。
この一文に出会った瞬間、胸の奥で小さな声がしました。
「ずっと隠してきた自分への態度は、本当にやさしかったのだろうか?」
動物実験をしていない化粧品、環境にやさしい洗剤、フェアトレードのコーヒー…。
誰かや何かを守るために選んできたはずなのに、自分自身には否定の言葉ばかりを浴びせてきました。
美しさの多様性との出会い

白斑を隠さずにモデルとして活躍するウィニー・ハーロウさんの存在は、特に印象的でした。
SNS越しでも、その姿に深く胸を打たれ、珍しくInstagramをフォローしたほどです。
また、白斑症を公表したマイケル・ジャクソン氏、日本では森光子さんや奥菜恵さんなど、著名人が発信していたことも知りました。
それでも「じゃあ自分も隠さずに生きよう」とすぐには思えません。
長年染みついた“隠す習慣”と“恐れ”は、そう簡単には消せないのです。
しかも、もう40代。
自信なんて正直ありません。
けれど、心のどこかにずっと消えない小さな問いがありました。
「隠さずにいられたら、どんな気持ちになるんだろう?」
そして、この小さな問いが次第に私の生き方を変えていくきっかけになっていきました。
誰かの言葉や生き方が、自分の心の鎖をそっと解くことがある。
エシカルって人に合わせることではなく、自分にも誠実でいることなのかもしれません。
第3章|見せることが自分を癒す。今、ここにある自己開示の道
ある日、ふとしたきっかけで、白斑のある自分の腕の写真をSNSに投稿してみました。
今はもう消してしまいましたけれどね(笑)
本当は、手が震えるほど怖かったんですよ。
「気持ち悪いって思われたらどうしよう」
「かまってちゃんだと思われるかも」
そんなネガティブな声が、頭の中でぐるぐると渦を巻いていました。
けれど、予想もしなかったことが起きます。
投稿には「勇気をもらいました」「あなたの言葉に救われました」といった温かいメッセージが次々と届いたのです。
普段はアンチのコメントばかりなのに(笑)
それを読んだ瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなりました。
「見せること」は、誰かとつながる行為なんだ
そう初めて感じたのです。
見せることって、誰かに何かを“見せつける”ことではない。
それはむしろ、“自分を信じる”という静かで確かな選択なのかもしれません。
もちろん、すべての反応がポジティブだったわけではありません。
「気持ち悪い」と思った人も、きっといたでしょう。
それでも、たった一人でも「それでいい」と言ってくれる人がいるなら、私にはそれで十分でした。
今でも、自己開示は道半ば。
怖さもあるし、心が揺れる瞬間もあります。
それでも今の自分を受け入れるという行為は、確かに私の心を癒しています。
誰かのためでも、誰かに認められるためでもなく、
自分にとってやさしい選択をこの瞬間から少しずつ積み重ねている
今は、ただそれだけです。
この「小さな自己開示」が、思いがけず僕の価値観を大きく揺らしていくことになりました。
自分をオープンにするって、本当に大きな勇気がいること。
でも、その一歩こそが自分を肯定し、内なる美しさを輝かせる力になるのかもしれない。
第4章|外見を整えるより、自分を愛せる習慣を持つ

そういえば20代の頃、僕は肌を隠すためのケアに、かなりお金も時間もかけていました。
ファンデーションの色味を何種類も試したり、コンシーラーを厚塗りして悩んだり…。
資生堂、セザンヌ、ちふれ、カネボウ、ソフィーナなど数えきれないほど試した末、
最終的にたどり着いたのはKATEのコンシーラーとセザンヌのUVファンデーションでした。
なので他の男性よりかは化粧品にちょっと詳しいおじさんです。
当時の僕にとってのスキンケアは「自分を整える」というよりも“誰かの目をごまかす”ための行為だったように思います。
いや、間違いなくそうでした。
40代になり、少しずつ「見せること」を受け入れられるようになった今、
私のスキンケアは“隠す”から“いたわる”へと変わっていきました。
肌が乾燥していれば丁寧に保湿をするし、日差しが強ければ日焼け止めを塗る。
でもそれは隠すためではなく、自分の体にありがとうと言いたくなるから。
朝、鏡に映る自分に「よし、介護すっか」と声をかけるだけでも、不思議と気持ちが少し整います。
服選びにも、少しだけ変化がありました。
以前は肌を見せないことが最優先。
でも今は、肌にやさしい素材の黒いTシャツや、あえて腕が見えるYシャツを選ぶこともあります。
「この肌でも、自分らしくいられる服を着たい」
そう思えるようになってからは、外見にかけるエネルギーが心地よいものに変わっていきました。
私の基本スタイルは、黒のTシャツにYシャツを羽織るシンプルな組み合わせ。
毎日ほぼ同じような服を着ていますが、大切なのはこの服を着た自分を、少しでも好きになれるかどうかです。
外見を完璧に整えることよりも、「自分にやさしくあるための習慣」こそが、私の中の“美しさ”を少しずつ育ててくれている。
今はそう感じています。
そして今、僕の中で「美しさ」という言葉の意味は、静かに塗り替えられつつあります。
外見を整えることが悪いんじゃない。
でも、“自分のため”に丁寧に手をかけることこそが、美しさの本質につながっていく気がするんだ。
まとめ|エシカルな視点が美しさの定義を変えてくれた

白斑症を隠し続けていた10代・20代の僕にとって、美しさ=普通に見えることでした。
周りと同じように見えること。目立たないこと。
それこそが美しさであり、生きやすさだと思っていました。
けれど、エシカルという視点に出会ってから、その定義は少しずつ変わっていきました。
エシカルとは、社会や環境にやさしくすることだけではない。
「自分自身にも、やさしくあること」
その気づきこそが、僕にとってのエシカルライフの始まりです。
誰かの期待に応えるよりも、自分の心がほっとできる選択をする。
正しさよりも、自分にとっての心地よさを優先する。
そんなふうに考えられるようになった今、私はようやく「自分のために生きている」と感じられるようになったのかもしれません。
かつては怖かった“見せること”も、今では”隠さない”という、自分なりのエシカルな選択のひとつです。
それは自己受容へとつながり、心のバランスを少しずつ取り戻してくれました。
白斑症は肌の色が白くなる以外に大きな症状はありません。
それでも、見た目が変わっていく恐ろしさや、人前に出ることへの恐怖感は、当事者にしかわからないものです。
だからこそ、この経験を言葉にしてシェアすることで、同じように見た目の悩みを抱える誰かが、ほんの少しでも肩の力を抜けたなら、それだけで、この記事には意味があると思っています。
長くなりましたが、僕にとってのエシカルとは
完璧じゃなくていい。
自分を否定しない選択を、今日もひとつ。
それが、僕にとってのエシカルライフのかたちです。
あなたにとっての“やさしい選択”は、どんなかたちですか?