大切な人のためにできることをしたい、その想いはたしかに本物でした。

けれど気づけば“自分を後回し”にして、毎日が「やらなきゃ」の連続になっていました。

少しずつ疲れが積み重なり、

ある日、自分の感情がどこにあるのか分からなくなってしまったんです。

介護は、想像よりもずっと大変で、やさしさだけでは続けられません。

それは頭では分かっていても、イライラしたり、涙がこぼれたりした自分を、どうしても許せませんでした。

そんなとき、ふと浮かんだのは

「そもそも介護における“エシカル”って何だろう?」という問い。

この記事では介護の日々のなかで私が見つけたエシカルな視点がくれた心の支えについて、等身大の気持ちで綴っていきます。

介護の日々の中で私は「私らしさ」を忘れかけていた

介護を始めたきっかけは、

私の家族が脳梗塞で倒れ、要介護5・身体障害者1級となったことから始まります。

「一度は家に帰してあげたい」という家族の想いから、在宅介護を選びました。

しかし現実は、想像していたよりもずっと厳しいものでした。

母と二人で分担しても、一人では到底回らない。

実際の1日の流れを、タイムスケジュールにするとこんな感じです。

在宅介護の1日(例)

食事は呑み込みやすいように柔らかくし、左側を認識しにくい「左空間半側無視」の症状に合わせた工夫(声かけ)も必要です。

訪問看護やリハビリの対応、家事や洗濯、自分の生活のやりくり、気づけば1日があっという間に過ぎていきます。

中でも一番負担を感じたのは排泄介助。

臭いや体調の変化への対応、そして時に八つ当たりされることもあり、ストレスは日々積み重なっていきました。

それでも「やらなきゃ」と動き続けるうちに、母が体調を崩し、私自身も心身の限界を感じるようになっていました。

誰かのために頑張ることは尊い。

でも、自分をすり減らしてまで続けていいわけではない。

そう気づくまで、私たちは少し頑張りすぎていたのかもしれません。


「自分を大切にすることも、思いやりのかたちではないでしょうか。」


エシカルという言葉に初めて自分も含まれていると感じた

「エシカルな暮らし」という言葉を初めて意識したのは、SNSで偶然目にしたある投稿でした。

そこには“自分にもやさしく”という言葉が添えられていて、

そのときの私は正直、どこか遠い世界の話に感じていました。

「今はそれどころじゃない」

「介護のことで精一杯」


そう思いながら画面を閉じかけましたが、ふと目に入った一文が心に引っかかったのです。

「自分にもやさしく。」

…… 自分にも?

それまで私は”エシカル=誰かのため”と思い込んでいました。

実際にSDGsとかは誰かのためにやろうというイメージが強かったですから。

でもその投稿は、自分もその“やさしさ”の対象にしていいのだと教えてくれたのです。

「私も頑張ってる。それを認めていいんだ」

無理しないケアも、ときどき手を抜くごはんも、一人で泣く時間も、それらはすべて「僕を大切にする選択」なんだと、少しずつ思えるようになっていきました。

それからは「完璧にやらなきゃ」に縛られず持続可能な自分でいることこそが、エシカルな選択かもしれないと感じるようになりました。

私の場合、介護だけでなく、白斑症との向き合い方を通じても「自分らしく」いることの大切さを学びました。

介護や白斑症、そして地方移住。

これらの経験が点と点でつながったとき、エシカルという考え方が僕の生き方の軸になり、こうして改めてこのブログを書き始めるきっかけとなったのです。

心がすっと軽くなった、私の介護の選び方

「きちんとやらなきゃ」

「迷惑をかけてはいけない」


そうやって肩に力を入れていた頃は、どんなに頑張っても心がすり減っていくばかりでした。

でも「自分にもやさしくしていい」と思えるようになってから、介護の中での“選び方”が少しずつ変わってきたように感じています。

以前は完璧にやることが正解だと思っていたけれど、

今は”心穏やかに続けられるかどうか”を優先するように。

本人にも、そのことを素直に伝えるようにしています。

使いやすい介護グッズやサービスを見つけたときも、

昔は「贅沢かな?」「甘えかな?」と遠慮していました。

けれど今は、少しでも楽になるなら使っていいと、自分に許可を出せるようになりました。

ちなみに、そのグッズは結局使わなかくなったんですけどね(笑)

何より大きな変化は「今日は疲れた」「できない」と素直に認められるようになったこと。

無理して笑うより、正直に今日は休みたいと伝えたほうが、結局はお互いにとっても良い時間になると分かったんです。

頑張らなきゃではなく続けられるように楽にできる工夫をする

それが今の私にとっての“エシカルな介護”のかたちです。

現在はケアマネージャーと連携し、週2回はデイケアで入浴をお願いし、月に1回は僕たちの息抜きのためにショートステイを利用しています。

金銭的には月6万円ほどかかりますが、心は以前よりずっと軽くなりました。


「助けてって言える強さも、実はすごくエシカルなことではないでしょうか。」


私らしさを取り戻すと相手の笑顔も戻ってきたと思っている

最初の頃は「どうせ俺なんか面倒見てくれないんだろ」などと、相手も悲観的で攻撃的な日々が続きました。

でも、少しずつ自分の気持ちを大切にできるようになってから、不思議と介護の空気がやわらかくなっていったんです。

ある朝、ほんの少しだけ自分の時間をとってからケアを始めた日。

気づけば自然に笑顔で声をかけられていました。

すると相手も笑ってくれる。

そして「気味が悪い」なんて冗談を言う(笑)

そんな当たり前のやりとりを私はいつの間にか忘れかけていたのかもしれません。

もちろん相手が不機嫌な日もあり、衝突することもありますが。

以前は「頑張らなきゃ」という思いでいっぱいで、

相手の小さな表情の変化にすら気づけないことがありました。

でも心に余裕ができてからは、ふとした一言や、目を見て話す時間のあたたかさに気づけるようになったんです。

これは本当に大きな変化でした。

介護って「支える/支えられる」だけの関係じゃない。


お互いの“心の余白”があるときこそ、やさしさは自然にめぐるのではないでしょうか


今は自分らしくいられる時間が、相手にもちゃんと伝わっている。

そう実感できています。

小さな工夫で心の負担を減らすエシカルな選択

「エシカル」と聞くと、つい大きな行動や特別な取り組みを想像してしまいます。

でも実際は、ほんの小さな工夫こそが、毎日の心の負担をやわらげるやさしい選択になる。そう気づきました。

たとえば、介護中に必ず出るゴミの臭い。

それを少しでも減らそうと、消臭機能のある密封式ゴミ袋に変えてみたら、毎日の小さなストレスが軽くなったんです。

開けた瞬間は、正直この世のものとは思えない臭いですが(笑)

また疲れてごはんを作る気力がない日には、地元スーパーで見つけた手作りのお惣菜に頼ることもあります。

「誰かが心を込めて作ってくれたものをいただく」

そんな感謝の気持ちが自然と湧き、買うことさえエシカルな選択に思えた瞬間でした。

介護食づくりも、すべて手作りにこだわらず、市販の冷凍食品やレトルトを上手に取り入れて無理なく対応。

頑張らないことが、心と身体のバランスを守ってくれると実感しました。

日々の暮らしの中で、ちょっとした選び方を変えるだけで、気持ちはふっと軽くなる。

それが、今の私にとってのエシカルな工夫です。


「エシカルって道具選びや『ありがとう』の一言で完結することもあるんじゃないかな。」


まとめ|エシカルは思いやりのかたち。自分に向けてもいい

介護の日々の中で「自分にやさしくすること」なんて、考えたこともありませんでした。

大切な人のために、精一杯尽くすことが愛情だと信じていたからです。

でも、心も体も限界に近づいていた時、ふと出会った「エシカル」という言葉が、思いやりを自分にも向けていいんだという気づきをくれました。

完璧じゃなくていい。泣いてしまってもいい。

時には立ち止まっても、また前を向けばそれでいい。

そう思えるようになってから、私の介護のかたちは少しずつ変わり始めました。

「私らしくいること」

それも大切な人と向き合うための力になる。

そしてそれこそが、エシカルな視点が与えてくれた心の余白だったのかもしれません。

在宅介護は本当に大変です。

この日記が今ちょっとだけ疲れているあなたにとって、自分を責めないための、やさしい一歩になれば嬉しいです。